歴史・地域資産チーム

歴史・地域資産グループ 千代田区在学の学生と語る 神田鎌倉町から見える「千代田の過去・今・未来」

千代田区と聞いて何を思い浮かべるだろうか?皇居の近く…ビジネス街…大学…そんな漠然としたイメージしか浮かんでこない人も多いのではないだろうか。自分もそうだった。しかし、この街の歴史が面白い。地域の歴史を通して千代田の魅力を、そして千代田を通して歴史の楽しさを伝えられたらうれしく思う。
私たちは、株式会社楓屋代表取締役会長であり、千代田区観光協会の理事でもあり、神田鎌倉町で町会の副会長を務める田熊清徳さんにインタビューを行い、そこからさまざまな地域の魅力や課題が見えてきた。

  1. 1江戸の熱気を今に伝える天下祭
  2. 2江戸の町はここから始まった!
  3. 3こっちの神田とそっちの神田。土地のDNAを残すには
  4. 4深く掘り起こさないと面白さは引き出せない

1 江戸の熱気を今に伝える天下祭 ―――神田祭の変化と学生の参加―――

千代田区を代表する伝統行事で、日本三大祭のひとつにも数えられる「神田祭」。江戸から続く伝統を持ち、将軍の上覧もあったことから「天下祭」とも呼ばれ、電気街や丸の内を巡幸する光景や100を超える神輿が宮入する熱気が人々を引き付ける。

神田祭りについて調べる中で、今の神輿とは異なり山車がメインだったと知りました。

田熊氏
「はい、山車でした。「江戸天下祭」というイベントが江戸開府400年つまり2003年に開催されました。江戸幕府は1603年成立ですから。川越や佐倉など、各地にいっている山車を集めて江戸時代の天下祭りのように開催したんです。日比谷公園から正門を出て、丸ノ内仲通りを巡幸して、東京駅の行幸通りに出て皇居前までというコースで。これはそのときに作成された版画です。
当時は担ぐ神輿ではなく、神様の鳳輦(ほうれん)と言うのを白装束の人が運ぶという形でした。」

それが変化していったのはどうしてでしょう。

田熊氏
「宮入というのは後からできたもので、明治に入って山車がなくなってから。文明開化で電線があらゆるところに張られて山車が巡幸できなくなったんですね。そんな諸事情もあり地方に出てしまったのです。それがいまも各地に残っている。その代わりに神輿が出てきたんです。」

神田祭が二年に一回なのは?

田熊氏
「神田祭は様々な行事を含んだもので、例大祭という厳粛な行事は毎年行われています。
神輿が出るのは2年に1回、それは8代将軍吉宗の時代に大岡越前守が贅沢禁止令で2年に1回、日枝の山王神社と交互にやれという通達が出て、それを守っているんです。暴れん坊将軍の時代ですね。それがずっと引き継がれて、町会の祭典委員会が運営しているんです。」

伝統的なお祭りって外部の人や学生が入りづらいみたいなイメージを個人的に感じてしまって、実際のところは?

田熊氏
「もう学生さん大歓迎。たとえばスチューデントハウスに住む学生なんかは、町会連合に割り振られて、高針提灯持つ役目だったり、いろんな役目を与えられて参加したりしています。そういう人の友達も参加して担いでいいよっていったりして。町会の半纏を着ていることが必要ですが、うちの鎌倉町では貸し半纏が400ぐらい、家庭や職場から貸し出すものも合わせればもっとあります。だからハードルは結構低いんじゃないですか。」

2 江戸の町はここから始まった! ―――地名からみえる地域の歴史と課題。―――

神田周辺には「紺屋町」「鍛治町」などの職業を表す地名が並び江戸時代に職人の町であったことが一目でわかる。
教科書的な知識と実際生活する街が結びつく。これこそ歴史を学ぶ楽しさではないだろうか。しかし、中には地図から消えてしまった地名もあるようだ。

「鎌倉町」とは。

田熊氏
「ここ鎌倉町は江戸の古町と言われる町でもあるんです。家康公が鎌倉の材木座の商人の力をかりるために、住まわせて材木と石材の供給の権利を与えたことが由来で、江戸幕府開府する前、小田原の北条氏が滅亡し家康が関東に来た1590年にさかのぼります。それから江戸の歴史は始まるんです。しかし現在、鎌倉町の町名は内神田にかわってしまっています。住所表示をわかりやすくするために。けど、コミュニティは相変わらず昔の町名のままで、お祭りもそうだし神輿も旧町名ごとに持っている」

田熊氏
「一丁目がない町があるんです。それが司町と多町です。どちらも2丁目の住所表示はあるのですが1丁目がないんです。1丁目のみ内神田とういう新住所に取り込まれてしまったのです。」

町名と地域の課題

田熊氏
「今、千代田区が一番課題にしてるが、新住民と旧住民のコミュニティをうまくいかせる方策でして、商売やって住んでるのが旧住民。新住民はマンションに住んでる人々。その人たちに鎌倉町をどうやって説明しようというのが説明しきれていない。地名として使われてないと、鎌倉町って何?ってことになる。閉鎖的な変な組織のように、見られたりもする。住所表示だけでもいろんな問題が山積してるんです。旧町名に戻したほうがいい。区長も戻す派だと思うんですけどね、だから昔の町名がわかるように「町名由来版」というのを作ったんだと思います。このままでは地域の衰退につながるのでは、というぐらいの危機感がありますが、町名を戻すのは大変らしいです。」

3 こっちの神田とそっちの神田。土地のDNAを残すには

地元住民の一人、そしてここ内神田鎌倉町会の副会長として田熊さんが考えるこれからの千代田区とはどういうものでしょうか?

田熊氏
神田は大きく分け歴史的に二通りの町に分類されます。この辺は江戸古町で人が住んで商売を行い、江戸時代からずっと変わらない神田。もう一方は武家地の神田です。しかし、明治時代以降に劇的に変わり、大学や病院、本屋が立ち並ぶようになり、今日の小川町、神保町、御茶ノ水界隈のようジャンル化された色々なお店が増えてきました。すなわち、武家地から大変貌した新しい神田。電気街からサブカルの聖地へと変化した秋葉原や古本・スポーツ用品・楽器の神保町など、皆さんが認識している神田がこっちなんです。 私が住む商売の町、変わらぬ神田には伝統文化を継承してきた江戸古町(えどこちょう)、継承すべき伝統文化、心意気などの土地のDNAが残っていて、それを誇りにしています。問題はどのように維持していくのか、活性化させていくのか。最近では土地開発によりマンションやホテルのように住宅地が増えていく現状にあります。そのような中でも江戸や日本古来の文化を表現できたら良いと思っています。

具体的にはどのようなものでしょうか。

田熊氏
町会、祭礼文化、コミュニティを守るには住所表示を旧来のものに戻すのもひとつ、マンションの住民との向き合い方や町会の管理体制を考えていかなくてはならないと思います。私たちの町会はエリアマネジメント的な方向に移行し始めています。地元の活動を見える化するというように。そうやって企業の方やマンションの方からの注目度が上がり、いきなことをやっているのだと思ってもらえるのです。もはやお祭りだけでは成り立ちません。町会がオープンに、エリマネ的に、どのように町を活性化させるのかを考えなくてはならないのです。
そして、まちは時代と共に変貌していきます。これからは土地の伝統文化を継承しつつ、新たなものも取り入れ常にアップグレードする。神田の町の特性特色を生かす「ヒューマンスケールのまちづくり」が必要かと存じます。

4 深く掘り起こさないと面白さは引き出せない

私たち学生が考えるこれからの千代田区としていくつかの学生主体による企画を持ち込んでみました。ひとつは江戸時代の地図と今の地図を照らし合わせて街を巡るというツアー、もうひとつは、そばや笹巻き毛抜き鮨といった江戸時代からずっと地元で愛され続けている料理を食べ、歴史を感じ、街を身近なものに感じてもらうツアーです。

田熊氏
最高ですね。ただ、古地図があればいいというものではない。どれだけ重ねられるかがポイント。例えば、笹巻き毛抜き鮨、これは赤穂浪士討ち入りの年に誕生したわけですが、ひょっとしたら赤穂浪士が食べていたかもしれない。そう思うと面白くないですか?瞬間的な古地図だけではわからないストーリーをつないでいくと面白いガイドができるわけです。それは教科書にも載ってない、あるいはインターネットにもないことだってあります。神田にはたくさんそういうネタが散りばめられています。ぜひ研究してみてください。私の知らないことを見つけてください。

なるほど。自分たちが知識を深く掘り起こさないと薄っぺらになって、魅力をお伝えすることができないのですね。

田熊氏
はい。細かすぎるかなと思いますが、私自身もガイドしていると徐々に細かい話になってくるのです。参加者も素人の方からすごくマニアックな方までいらっしゃいますからね。しかも鬼平犯科帳や古典落語など幅広いジャンルがあるので、そういう意味では神田の知識を深めるためのとっかかりがたくさんあります。

「平成」という一つの時代が終わる。多くの学生にとっては初めての体験だ。今もやがて過去になり、歴史となっていく私たちは何を残していけるのだろう。玉手箱のように眠っている街の歴史を拾い上げていくことで見いだす楽しさをもっと多くの人に知ってもらいたい。赤穂浪士に想いを馳せながら笹巻き毛抜鮨を食べてみたいと感じるように、自分が暮らす町、通う町の地域資産から過去・今・未来に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

<取材・文> 法政大学 法学部  櫻井 恵
法政大学 社会学部 伊藤 拓実

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